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2018年6月14日 (木)

悲惨な将来の姉と兄

悲惨な将来の姉と兄

小さいころは、障害者の兄や姉たちも大きくなったら、
障害が治って幸せになれると、漠然と信じ込んでいたようだ。

小学校の2年生くらいに、
母親はあいつらは障害が進み、やがて大きくなる前に死ぬんや!
という心ないことばを私に放った。

それを聞いた時、自分が死刑を宣告されたような感じがした。

衝撃だった!

あまりのショックで打ちのめされたようになった私は、
思わず外に飛び出した。

一瞬、頭の中が錯乱したのかもしれない。

誰か助けて!と心の中で叫びながら、
すれ違って行く人を見まわし、
しばらく道をオロオロしていた。

助けを求めるべき親から受けたショック!!

誰も助けてくれない!

悶えるような無力感、絶望感

兄はたった一人で障害をもったまま死んでいくのか?

そんなことさせてはいけない。

ネロにパトラッシュがいたように

兄には自分がついていてやらねば

放ってはおけない気持ちにだった。

その思いは、になると一層強くなり、母親に縛られる要因になった

そして、私もそんな絶望しかない世の中で暮らすのは嫌だと思った。

私は決死の覚悟で、兄に将来待ち受けていることを告げた。

その時にはすでに母親が、姉や兄にその残酷な将来を言い放っていたようだ。
どうせ死ぬなら、早よ死んでしまえ!
ともっと酷いこといっていたのだった。

私は兄に大きくなっても治らないなら、今!一緒に死のうと言った。

兄はうんと言って、不自由な身体を引きずり、
二人で台所に行って包丁を手に持った。

しかしその時、兄は私ちゃん、ありがとう。
僕もう、ええねんと言って静かに笑った。

その時、兄はもうあきらめ、自分の待ち受けている将来を受け入れていた。

私はあの時一緒に死んであげられなかった自分を最近まで責めていた。

あの時、神様しか救ってくれる存在はないと悟ったのだが、

しかし今、何もしてくれないではないか!

私はどうしたらいい?

神様を恨みたかったが、神様以外のどこに救いを求めたらいい?

救いはそこにしかないと観念するしかなかった

恨めなかったのだ

ただ、兄や姉をどうにかして救ってほしかった

あのどうしようもない無力さ、暗闇が、黒い大きな岩として

今も私の心の中を巣食っている正体の一つのように思う。

その時の神を求める気持ち

幼い日から、クリスマスの絵に深く引き寄せられていた私は

いずれ聖書の世界に行きたいと思っていた。

今のこんな現実から離れ、神聖な清い世界へ憧れた。

それが、15才でに引き寄せられていく原点のひとつとなっている。

ただの現実逃避にすぎなかったのだろうか?

は救いの希望としてハルマゲドンの滅びにつづく楽園を述べている。

のいう楽園の希望は、様な苦しみからの解放であるはずなのだが、
私にとっては、その希望は自分なんかはそこには行けない!と
かえって自分を責める立てる材料になった。

また、20歳をすぎたころから、のようなこんな人たち!と一緒に
楽園なんかへは行きたくないと思っていた。

同時にそう思う自分が、人を許せない狭量な人間で、
一層そこにはふさわしくないのだと自分を責めた。

また、こんな自分と永遠に生きて付き合わねばならないのか
と思うとゾッとした。

になっても私としては、少しも救いにはならなかった。

ただ、今の邪悪な世が早く終わり、姉や兄のように苦しむもの達が
いなくなって欲しいという願望だけがを続ける意味となっていた。

18歳で一度本当に死のうとしたが思い改めた、
20歳を過ぎたころは、ただ死にたかった。
後述する

私は無に帰し、完全に消えてなくなるのだ!

ハルマゲドンで滅ぼされるのだ!

それが私の希望となってしまった。

そして何とかこのまま生きてさえいれば滅ぼしてもらえる

そう思ってからは、死ぬ方法を考えなくなった。

楽園には本当に救われるべき人が生き残るべきだ。

障害者の兄や姉のような苦しむ人が救われて欲しい。

しかし同時にそういう人たちは、今をどうやって生きていったらいいのか?

ただ近い将来、楽園の希望がありますよだけでは、
絵に描いた餅にすぎないではないか?

そういう人が今を生きる術や、具体的な導きをは指示せない。

は、ただこんな障害があっても、大病を患っていても
奉仕時間を入れ、集会や大会に出席ししているんだぞ!という
脅迫めいた経験談にするだけである。

私はできるなら、そういう今を生きる助けが必要な人へ
実際的な方法で助けを差し伸べられる側に立ちたかった。

しかし、30歳を前にして私の心身はボロボロで
自活し生きるのがやっとだった。
その上、親からの束縛された要求を、バカなことに受け入れていた。

そんな私が、福祉の世界などに足を踏み入れたら、
かえって周りの迷惑になるだろう。
第一、責任など持てないではないか?

今もなお、目立つことなく黙と、人がやりたがらないことを
ひたすら続けてしている以外の人がたくさんおられる。

のダラダラとした宣教とやらで、何か人に役に立つことはあるのだろうか?

彼らは霊的な救いこそが真の救いで
今そういう活動をしても、焼石に水となるだけで
永続する益にはならないのだと教えていた。

しかし、ダラダラと時間を無意味な宣教に費やすくらいなら、
焼石に水でもいい!喉から手が出るほど必要としている人に
少しでいいから助けの手を差し伸べてやれ!と思う。

が定めた時間の要求に入らない活動は無駄なのか?
時間に入らないことはしないのか?
要求されたことしかやらないというのでは
聖書がいう自発的な心とは、かけ離れていくばかりではないか。

最近聞いたが、内では支部の近所を清掃したという
当たり前なことさえ、良いニュースとして
取り上げられるらしい

組織が霊的活動と認めたこと以外のことをするのは、
異例なことで良い評判を得るための手段でしかないのだろう。

の地震など被災地への救援があったが、どの程度役に立ったのだろう?

そして肝心の霊的救いについては
にはそれさえ!もないように見える。

たとえそれしか!できなくてもいいのだ。

それだけでも!できていれば上等なのだが

今も救いは創造者にしかないという確信に揺らぎはないが
のいうハルマゲドンの滅びや楽園とは違うものだと思っている。

の実態は表面的な綺麗ごとと、
楽園と滅びしか言わない
また滅びで人を脅迫してまわる社会の脅威と
化しているようにも思える。


実際的で役に立つ方法ではなく、
独自の自己満足を満たす基準で
自分たちだけが生き残れると豪語する
哀れな存在に成り果てているように思えてならない。

そして内部のほとんどは、噂と中傷にまみれ
結果と肩書だけしか見ない、腐った説得力のない集団と化しているではないか?

で、敬虔な特質を培うなどの内面を磨く努力を
誠実に行っている人はどれくらいいるのだろう?

結果や肩書を重視する傾向は、人を傲慢にさせるだけである。

少なくとも私の人生は、そうした人ばかりに出会う事が多かった。
そうでない人は、1割にも満たない数パーセント程度である。

私は心身の健康を損ね、滅ぼされるまでの辛抱と、
ただ生きるためだけに必死で生きてきた。

それが私の40年以上にも及ぶ人生だったといっても過言ではない。

ハルマゲドンの滅びが近いその洗脳に私は愚かにも深く浸かっていた。

現実を生きるということを、放棄しただけの人生だったのか

幼い日、兄と死のうとしたあの悲痛な心の叫び

それにこたえるような生き方をしたかったものだと思う。

から聖書の基本的な知識は確かにもらえたと思う。

しかし、に答えがあったと思ったのは、単なる錯覚でしかなかったとは

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